今、思い出しても不思議なめぐりあわせでの講演会参加でした。つまり、自分の意志で行きたく行ったのではない、ということです。ですから、その講演会の内容は刺激的でしたが、行ったことは、ほぼ、10年ほど忘却されたままでした。
そう、この講演会から10年後、30歳を超えた私は、Shumei自然農法の導きで、実家の棚田で自然農法での稲作を始めることになりました。
親父はしぶしぶと自分が作っている8名の棚田の一番下の2枚を私に貸してくれました。2枚合わせても5畝歩かないか。そこで、見よう見まねでやってみました。手伝いにも、多くの同志が来てくれて、何とか収穫。その時は、収穫の喜びよりも「やっと終わった」感の方が強かったように思います。
しかし、次の年からはその棚田2枚は、親父に返さなければいけなくなりました。その訳は、50年ぶりにこの谷を襲った豪雨にあります。異常気象のせいかどうかはわかりませんが、その年の10月に大変な雨が、田舎の山々に襲い掛かり、二瀑布を含む谷という谷を土石流の大蛇の通り道にし、橋も、川傍の田畑も投げ飛ばし、埋め尽くしました。私が借りていたのとは別の川下にある親父の田3反ほども、荒れ狂った川の土砂と倒木で埋め尽くされました。
親父は、畦も分からなくしてその田に流れ込んで居座っている岩石や砂利や倒木やらを、その冬いっぱいかけて除去して、3月の終わりには5月から田として使えるように整備のですが、その後すぐに、お国の陸運省河川管理事務所の方が来て、「ここは危険なので、もう圃場としては使えません。もともと、無税の河原の一部だったので、国に返してもらうことになります」とのこと。
この処分にはさすがの親父も激怒して言い返したそうですが、後の祭り。お役所の机上でいったん決まったものは、たとえ現地の状態がどうなっていようとも、百姓の想いがどうであろうとも覆るはずもなく、親父の憤懣もいたずらなり。
そんなわけで、3反の田を国に返した(盗られた?)親父は、私に貸していた田も自分で耕作しないといけなくなったのです。
「それならそうと、現地視察から帰って、間なしに言ってほしかったな」とは、しょげた親父の繰り言でした。
そんなこともあり、私は稲作からは離れました。
その後、結婚を機に転勤もしたりして、バタバタと忙しくなり、子ども二人が生まれ、やや落ち着いてきたときに、再度、自分で畑と田んぼを自然農法でしたくなって、あれこれと勉強しているうちに、再々度、福岡正信さんと向き合い、「自然農法 わら一本の革命」を読むことになったのでした。その後、福岡さんの実家を訪ねて息子さんと話したり、岡山や徳島の先輩同士の圃場に見学行ったりして、今、9反24枚の棚田で、コシヒカリを自然農法稲作しているわけです。
親父は、この4月に他界し、どんな思いで息子の田んぼ作りを見ていることか、少し気になります。
ではなぜ、いま、福岡さんの話をしているかといいますと、何も親父の追悼をしたいわけではありません。2月6日にこのブログに揚げたレイモンド・エップ氏の講演会において、氏が、やはり福岡さんとの邂逅を写真付きで懐かしく紹介され、次のようなエピソードを話されたからです。
それは、1998年栃木県での福岡さんの講演会後の質疑応答で、参加者の一人が、「それは、例えばどういうことですか?」といったことを聞かれたそうです。すると、福岡さんは、「例え話でも、理論でもないんだ。体験からしか学べないことがあるんだ。」と、語気を荒立てて応答し、「そんなことも分からん奴は、ここから出ていけ。」と、その質問者を実際に会場から追い出したそうです。それを見ていたレイモンド・エップ氏は、「これは本物だ」と思ったとか。(含、少し私の想像(笑))
私が参加した講演会では、そのようなこともなく、穏やかに終わられたと記憶していますが、ここでも、また、福岡正信さんかと思った次第です。
郷里の偉大な自然農法の実践家として指標とさせて頂き、私も多くの人と手を取り合って、桃源郷=地上天国実現のために、動いていきたいと思います。
コメント